天正年間、羽柴秀吉は播磨国平定のために精力的に活動した。加古川はその重要な拠点のひとつとなり、天正五年(1577年)には加古川城において有名な「加古川評定」が行われた。これは播磨の国人たちが秀吉と会合を開いた場であり、多くの国人領主が秀吉への臣従を誓った歴史的な出来事である。しかし評定に加わりながら去った別所長治はその後謀反を起こし、秀吉は三木城攻めを余儀なくされた。
この三木の干殺しとも称された激しい攻城戦は播磨の歴史に深く刻まれている。加古川周辺の人々もこの戦乱に巻き込まれ、多くの苦難を経験した。その後、秀吉は毛利攻めに専念し播磨を後背地として固めた。天正十年(1582年)の本能寺の変後、秀吉は「中国大返し」によって播磨を電光石火で通過し、山崎の戦いで明智光秀を討った。
この歴史的行軍の経路にも加古川周辺が含まれており、天下分け目の転換点に深く関わった地域といえる。秀吉の覇業を支えた播磨の大地は、近世の幕開けを迎えようとしていた。
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